聖徳太子様が天照大神の神勅に従い、
国束山に観音様を祀られました

国束寺
宗  派 和 宗 (天台系) 総本山四天王寺 
開  基 伝聖徳太子
本  尊 十一面観世音菩薩
山号寺号 涌福智山 國束寺(ゆうふくちざん くづかじ)
住  職 中興第十七世 土面信順
札  所 伊勢西国三十三所元九番
御 詠 歌 神代より 國を束ぬる 寺なれば 福智を涌かす 仏なりけり

歴 史

禁裏御黒戸 御用

國束寺は、推古天皇9年(601)聖徳太子様が皇大神宮の「伊勢神宮の西にある国束山山頂に十一面観音像を安置し、国土安穏を祈念せよ」との神勅に従い、鎮護国家の寺、国家安泰を祈願する寺として始まりました。

 その後、聖武天皇や嵯峨天皇、またこの地域の国司であった北畠氏による篤いご信仰により、山内に六院百三十二坊を有する大寺院に発展し、文明11年(1479)には後土御門天皇により、勅願寺となりました。また弘法大師空海がこの地を訪れた際にはこの山を『胎蔵界曼荼羅の山』と称嘆なされたと伝えられております。
 北畠国永「年代和歌抄」に禅也法師の歌が残されております
  『寺のなも 國をつかぬる山なれば 代々にし高く 仰がざらめや』  

 平安~鎌倉~室町期には密教の一大修行道場として発展した國束寺でしたが、戦国時代には織田の伊勢攻めにより山内の堂塔伽藍は全て灰燼とされてしまいます。

 江戸時代になるとこの地域を治めた紀州徳川家や藤堂高虎公の帰依により寺領を賜り、延宝2年(1674)紀州藩二代目藩主徳川光貞公により観音堂荒神堂が再建され、天台宗國束寺として山上の伽藍の他、山内外に塔頭を有する寺院に再興しました。その時の住職である見明上人を國束寺中興の祖師とし、現住職信順で十七代目を数えます。

 天保五年(1835)に書かれた『勢州田丸領涌福智山國束寺一山惣絵図』(國束寺蔵)はその当時の国束寺の様子が偲ばれます。
 当時の国束山の様子を茶人金森得水が次のように詠まれました。
 『遠近(おちこち)の人も くづかのやまざくら 御法(みのり)の花の おくをたづねて』

 その後、明治時代の神仏分離令(廃仏毀釈)や、敗戦後のGHQによる農地改革によって衰微を余儀なくされ、山頂での寺院維持運営が困難であると判断し、昭和28年(1953)本尊と観音堂、聖天堂は戦災で伽藍を失った大阪四天王寺へ移築し、その他のお堂や建物は国束山南麓の現在地に移築しました。

 隆盛から灰燼に、そして再興から衰微移転という歴史を歩んだ國束寺は、現在は宗派を天台宗から和宗(総本山四天王寺)へと改めて、寺院を護持しております。